天から二物も三物も与えられた男がいた。
誰にもまねできない独特のステップ、何人も触れらなかった。京の路地を駆けるがごとく。彼よりタイムの速い人はいても、彼ほど惹きつける走りを見せた人はいない。パスは早く長く、不思議と相手の胸元に優しく収まった。周りが見える戦術家であった。周囲への伝え方も天性の才があった。シンプルな表現を使い、時にはサインプレーのポジショニングを大阪湾を囲む地名で伝えた。ひとたびプレーがはじまると、閃きを織り交ぜ、周囲にも瞬時の判断力を求めた。アドリブ、さらりと言ったが、判断力を磨くために地道な訓練が必要とも言った。選手たちが楽しそうに走り回るラグビーを、人は自由と評した。その二文字は彼が去った後もチームの代名詞にもなった。また、あるものは、継続ラグビーとも展開ラグビーとも言った。この流れは今に引き継がれている。
華麗なオフェンスの一方で、ディフェンスは誰にも破れなかった。激しいタックルをしなくても、抜かれることはなかった。相手を捕まえてフォロワーにボールを奪わせるターンオーバーは職人芸だった。
カリスマであった。当時新興であった高校を主将として日本一にのし上げた。大学では三連覇。社会人でも、優勝経験のないチームを主将就任の年から7連覇させた。日本一が11回。監督やヘッドコーチを廃して、選手自身が主導権をとり、日本一のチームを作り上げていくスタイルは、日本のスポーツ界全体でも彼がいた一時期だけに成功したと言えるだろう。彼が去った後の大学、社会人では選手主導が受け継がれたが、日本一は一度も無い。試合後のインタビューでは、息も乱さずに解説者以上に分析してみせた。誰もが彼の頭脳とキャプテンシーに驚嘆した。
抜群のルックス、彫りの深い顔立ちは、一流のモデルとしても通用した。ゲームで見せる勇ましさとは対照的に、グランド外で見せる表情は優しく、瞳は涼しかった。目立つことを嫌い、大騒ぎする仲間から離れて一人静かに過ごすことが多かった。猛者たちを率いている人とは思えない魅力があり、体育会以外の人の交流も多かった。それでいて、大学時代から、祇園にも足を運ぶ一面もあった。各業界の大物とも交流していた。
これでも十分すぎる。しかし、彼の最大の特徴は、明晰な頭脳である。楕円球の不規則性が象徴するゲーム性の高いスポーツにおいて、複雑な目の前の現象を体系化して理解する力があった。スパルタが残る当時の大学体育会に、新風を吹き込んだ。練習時間を徹底的に減らして、無駄な練習はすべてやめさせた。「決めごとのラグビー」の全盛時にである80年代に、それでは世界では勝てないと言ったの彼である。それを、チームに浸透させてきた。スポーツを通した地域コミュニティの活性化に興味をもち、提案してきた。
その男の名は平尾誠二。
この名は、日本にラグビーがある限り語り継がれるに違いない。
大学時代のABマッチでは、Bチームを率いてスター軍団のAチームを破ったという伝説がある。真偽はともかく、その能力が後年彼を苦しめることになったと私は思う。彼の所属したチームは、必ずしも優勝の最有力ではなかった。フォワードが非力だったためであるが、そんなチームを毎年日本一にしてきた。同志社大学もしかり、神戸製鋼もしかり。スクラムが弱く、強豪相手では、必ず押された。当時はスクラムが重視されていた時代であった。
その経験が指導者としては、マイナスに作用したようである。97年に就任した代表監督では、外国人主将を含む6人起用するなど思い切った対策を行った。それでも、99年のワールドカップでは、戦略戦術以前のフィットネスの差で勝負が決まってしまった。すでに、世界のラグビーのプロ化は本格化しており、体格、体力が飛躍的に向上していた。その流れに、ピークを過ぎた外国人選手のつぎはぎでは埋められるはずもなかった。外国人選手の起用は、世界で戦える体格をもった日本チームに所属する選手を選んだに過ぎなかった。技術は未熟な体格のある日本人若手も登用もした。批判もされたが、その判断が正しかったことは今となっては明らかである。平尾プロジェクトも、その流れの一環であるが、こうした地道な強化は時間が要した。しかしながら、成果がでるだけの時間は与えられず、2000年のパシフィックリムで全敗を喫し、その責任を取る形で監督を辞任になる。次のワールドカップまで時間を与えられていれば、違った結果になったに違いない。
はるか後年、エディー・ジョーンズは日本代表を1クラブチームとして扱い、長期間の合宿で徹底的にウエイトトレーニングをさせて成績を残した。エディーが、その後就任したイングランド代表では日本代表のような手段をとらずに成果を出している。このことからも、平尾ジャパン時代の日本でも世界にと戦うためには、フィットネス向上が最大の課題であったのがわかる。エディーも相当な圧力に苦み志半ばで退任することになったが、当時のジャパンは、遙かに環境が悪かった。試合の前に選手を招集するのオールスター戦のような形式であり、体格に関しては所属するチームに依存するしかなかった。当時、問題提起をしている文章を読んだことがあるが、30代前半でもあり、当時の監督は現場の指導の権限しか与えられていなかった。
代表監督就任を期に、神戸製鋼ではヘッドコーチからゼネラルマネージャーに代わっていた。代表監督を辞任した後もゼネラルマネージャーという位置は変わりないが、神戸製鋼内での実質的な立場はわからない。ただ、本格的に神戸製鋼の強化に乗り出したように思う。しかし、結果は目に見えては出なかった。トップリーグの初代王者にこそなったものの、2000年前半のサントリー、2000年中盤の東芝府中に大きく後塵を拝してしまう。とりわけ04年の東芝府中に0-41で敗れたのが象徴的であった。
ここでも、フィットネスで勝負が決まっていたように思う。この頃には、世界のプロ化、大型化の流れが日本にも入ってきた。徹底したウエイトトレーニングや栄養管理が導入された報道を記憶している。日本人もトップクラスは体格が急激に変わっている。余談であるが、大学でも帝京大学はその流れにいち早く乗って成績を収めている。いずれにしても、神戸製鋼は関東勢のその流れに遅れをとったように思える。
いまひとつの理由は、チームとマッチするスタンドオフが育たなかったせいかもしれない。代表では、岩渕を起用した。個性が強すぎてチームにマッチせず、そのトリッキーな動きは時に味方まで惑わされていたようだ。バックスについても、チームの形が形成できなかったように思われる。センスは抜群であったが、ミスターラグビーを継ぐものではなかった。神戸製鋼では、岩渕の他、ミラー、今村ら一流の選手が起用されたが、ついに彼以上のインパクトのある選手はでなかったように思う。
現在の日本代表は、世界との体格差がそれほどなくなった。戦略戦術や判断で勝負できる環境になってきた。やっと、平尾誠二の出番がきたかのように思える。マネージャーの立場はもちろん、できれば、もう一度、現場で代表を率いてほしいと願っていた。
※スポーツ万能で、かっこよくて、スマートで、頭も良くて、それでいて優しい平尾さんは、考えら得るすべてを備えていました。お会いするとそのオーラに言葉が出ませんでした。こんな人は他にはいません。唯一無二の存在。子供のころからのあこがれでした。あの優しい瞳で、同志社ラグビーを見守ってあげてください。
前半は物語として、後半は私見を書きました。ご容赦ください。